おはようございます。
Shortmanです。
東京、いや日本は狂いだした(小池知事は元々狂っているとみるべきなので)。
禁酒法に灯火管制・・・
産経新聞, 「令和の禁酒法だ」休業要請に大阪の飲食店関係者怒り
東京新聞, 令和の灯火管制?初日の東京の繁華街は変化見られず 小池知事が消灯要請も…
私は本当に心配だ。
現代, コロナ自粛は「不寛容な戦前」の再来…ファシズム化する日本の末路
戦前の話。
『「いつか来た道」といえばいいのか、この既視感はなんだろう。時計の針をもどしてみよう。いまから100年ほど昔の話だ。大正デモクラシー期の日本で、「社会連帯」という言葉が広がりを見せていた(冨江直子『救貧のなかの日本近代』)。
これは、貧困にたいして、社会が連帯して責任をもつという意味だ。だが気をつけよう。前提にあるのは「国民の義務」だ。個人は、社会に奉仕する義務を負う。その義務を果たした責任ある個人のみ、社会は連帯して命を助ける。自由な個人の相互関係ではなく、社会と個人の双方向の義務・責任として「連帯」が語られたのだ。
考えてみてほしい。たしかに、いま僕たちは、「連帯」してコロナに立ち向かっている。だが、自粛は、僕たちが果たすべき「国民の義務」として語られていないか。個人の権利より社会への責任が優先され、これに従わなかった人たちは、まるで非国民と言わんばかりのあつかいを受けていないか。もしそうなら、戦前の「連帯」となにがちがうのか。
社会連帯が語られた時代から10年ほどが過ぎた1930~40年代、日本にはファシズムの嵐が吹きあれた。社会への献身は国民の義務と見なされた。自由は破壊され、個人は全体が求める価値へと吸収され、異議申し立てをする権利も否定された。』
ファシズムへ移行するキッカケ。
『ファシズム国家にはいくつかの特徴がある。世界大恐慌が中間層の暮らしを直撃し、人びとは転落の恐怖におびえていた。失業者や若者、退役軍人、多くの人たちが社会的な居場所を失っていた。政争を繰りかえす政府への不信は頂点に達し、国民は自分たちの暮らしをボランティア組織や協同組合のような団体に依存させていた。
そして、頼る先をなくしたこれらの人たちこそがファシズム運動の担い手となっていった。』
現代の話。
『いまの日本はどうか。勤労者世帯のくらしは劣化を続けている。収入のピークは1997年、いまから23年前だ。年収300万円以下の世帯割合は、1989年とほぼ同じ水準まで増加した。非正規雇用者は全体の4割に迫り、若者の非正規割合も高止まりしている。
金融庁の2000万円問題が老後の不安を白日のもとにさらし、高齢者は孤独死の恐怖にふるえている。政府への信頼はもともと先進国で最低レベルだが、さらに自民党の政治腐敗、左派野党の離合集散がこれに拍車をかけている。また、地域包括ケアや子ども食堂など、国民の命は政府の責任領域から離れ、地域の協働や中間団体に投げだされつつある。現代の日本は、ファシズム国家の特徴をみごとに押さえている。
そう、コロナ禍で観察された、日本のあやうさを象徴するできごとは、社会の足元がゆらぐなかで起きたのだった。権利よりも義務が優先され、全体の価値に服しない人たちには有形無形の圧力がくわえられる社会。民度の高低を語っている場合ではない。』
どうすべきか?
ここから先は Shortman会員 限定です。
Shortman為替レポートの10日間無料購読キャンペーンはこちら